おにいさんの手帳

ブラック企業のオーナーを辞めて職探ししてるところから始まります

じてんしゃ

自転車っていうのは浪漫としかいいようがない。

中学校の頃、鬱屈した日々を送っていた自分というのは「こうでなければならない」「大人というのはシッカリしていなければならない」と思っていた。親が会社を経営しているとどうにも生きにくい。時代は不況もどん底で、建設業は悪とまで言われたし、いつ自分の生活がまっさらになるか気が気ではなかった。諸っ直な話、やりたくないと思っていたんだと思う。

 

中学校の頃、成人式に読むように書いた手紙にはそれが濃縮されていた。一読して捨てたけど。とにもかくにも、この人間はそういう小さいころからのトラウマからか大きなものを背負いたいと思わないようだ。いつでもすぐに移動できるような生き方が精神的にも合っているようで、家を買おうとかも思わない。勝手に同じところに住むのはいいけど「いなくてはならない」となるのが嫌いなのだろう。

 

中学のころもそうだけど、高校の頃もアニメばかり見ていた。ただそれだけじゃただのオタクになっちまう。ただでさえ体脂肪MAX37%のメタボな体をしているんだ。何か他に趣味を「身に着けよう」と思ってモーターレースを見てそして剣術を始めた。声優ラジオを聴いているうちにアニスパという番組を知り、POAROというユニットを知った。彼らは16の自分にとっては大人(当時31と28歳)であったけど、自分の思う大人とは違っていた。

 

ずいぶん自由なのだ。下ネタはいうし、ふざけたことしかしないし。バラエティーではなく普通のこととしてしていた。今になって思えば、大人は大人のフリをしていただけで中身は子供と大して変わらない。だけどその時の自分にとっては目から鱗としかいいようがなかったし、「~でなければならない」に支配されていた自分にとっては精神的に救済された。自由でいいんだ!って。高校から大学の間、彼らが登場するラジオを死ぬほど聞いた。彼らが影響されたものも全てではないけど知ろうとした。

 

そんなこんなしていたら大学に入学して東京にきていた。大学のサークル1年の夏合宿は九十九里浜で台風が接近している時だった。宿にバスで着くと、クロスバイクが1台ある。1つ上の先輩が100kmほど走って合宿所まで来たらしい。

 

数か月後の学祭2日目。先輩4人にファミレスに誘われた。クロスバイクで走ってきた人もその中にいた。最終日の明日、闇鍋をやって映像企画にしてコミケで出そう。そのとき、うっかり「うちなら空いてますよ」と言ってしまったのが全ての始まりだった。この企画自体はサークル内のゴタゴタの末に生まれたものなんだけど、気づいたらやっていて、コミケで頒布していた。

 

大学の2年になった頃、何か新しいことをしようと思っていた。春から剣術のサークルも1つ立ち上げて5人ぐらいで活動を始めていたりしたけど、全く新しいことを何かと思った時に自転車が頭をよぎった。

 

要因はいくつもある。ここまで長いこと書いたのは布石だからだ。

・中学生が憧れることと言えば「自転車で遠くに行ってみた!」

・部活もしてなかったし青春っぽいことをしてみたい

・高校で痩せたとはいえ中学時代のように肥満になりたくない

・モーターレースのようにタイヤがついていることをしたい

・バカバカしいと思われることをしたい

・自由に、いろいろなところに行きたかった

金がない大学生にとって調和するところが自転車で、クロスバイクをかった。加えると、自分が「こうなりたい」と思っている人物がその先輩で、とりあえず同じことをすれば同じようになれるのではないか。と単純に思ったというのもある。

 

というわけで、僕は自転車乗りになった。

 

目標は最初から決まっていた、佐渡ロングライド210完走だ。気づいたかもしれないけど、クロスバイクの先輩が誘われたのだ。ただ、130kmコースから目指すことにした。佐渡は起伏が激しいから山も登れないとイケない。

 

僕の周りには自転車界隈の人は当時はその1人しかいなかったから「自転車で1つの山を登る」というのは小さいコミュニティの中では恐ろしく馬鹿々々しく面白く感じた。無知ゆえに手近な山に行ったら道も分からず、箱根旧道や赤城旧道という「著しく初心者向けではないコース」を登っていた。今思うと、相当頭がおかしい。

 

その後、佐渡1周をし、就職をし、ボーナスの殆どを使ってカーボン製のロードバイクを買ったところで目標を失っていた。「色々なところに行きたい」「遠くに行きたい」という感情だけがあった。友達もロードに乗り始め、そんな彼がロングライダースという本を紹介してくれた。読んでみると東京大阪を突っ走る企画や1000kmを走る企画がたくさんのっている。ばかばかしい!すげぇ!!と思うとともに「行動の指針」を得た。

 

それから何年も経ち、いろいろな場所に行き、気づいたら長距離専門+山をそこそこ登れる”結構速い”部類まで育った。存在は各所でしられてはいると思う。通算だけど青森から下関、九州1周、沖縄1周、日本海側は山形から鳥取の手前まで。

 

楽しいというよりも、最初は「誰からも認めてもらいたい」という感情が猛烈に強かった。自転車の界隈で有名な人たちに知られたいと思って、とにかくいろいろなコースを走りに走った。嬉しいことに、次第に声をかけて貰えるようになるようになった。自転車における相棒やグループも生まれた。

 

 

自転車の楽しみ方は人それぞれ違うのにも気づいた。自分にとっては行ったことがないところに行けた、見れた。ということのほうが大事でもあった。東京にいた当時はシフト制の肉体仕事をしていた、これが疲れる。1日の休みを使って、疲れ切った状態で何百キロも走る。さらに疲れた状態で仕事をする。仕事をしながら体を休めるというスタンスだった。

 

それがつらすぎるし、もっと自転車のイベントにたくさん出たいと思った。腰痛もあって、とりあえず土日の仕事に変えた。結果的にイベントに出れるようになって、実績を積み、もっとやりたいと思うようになったが、今度は休み自体がなくなった。

 

自分がやりたい、やりたい、やりたいと思っていることが仕事で出来ず、同世代がどんどん自分もやりたいと思っていることに挑戦していくのは見ていて「言葉にできないほどの感情」をもたらす。結果として僕は精神的限界を感じて、また仕事を辞めた。

 

自転車が、というよりも世界というのは面白い。死ぬまでに何がしたいか?と言われたら世界のすべてを見て知りたいというのが答えになる。どうせなら他の人がやらない面白い方法で。ユーラシアを自転車で横断とか面白さしか感じない。浪漫だ。

その時、どんな風景が待っているのか想像しただけで胸が高鳴る。

 

そういう意味だけにおいて人生は意識高く生きたい。仕事はその手段でしかない。

「~しなければならない」という世界ではこの発想は悪でしかない。

 

そうさ、ダメ人間といえばダメ人間さ。

でもまぁ、人間ってのはやりたいことをやるもんなのさ!少なくとも、自分がやりたくないと思ったことは続かないってのは10年で分かった気がする。中学からの鬱屈、自分探し、そして28歳を目前に迎えてようやく自分ってもんが分かったそんな気が、特にここ数カ月思う。