おにいさんの手帳

ブラック企業のオーナーを辞めて職探ししてるところから始まります

アタック沖縄本島

2015年の6月29日、沖縄を自転車で1周した。といっても正確には3/4周だ。

距離は300km 14時間半 登った高度は3200m弱

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ここまでならありふれたファストランの記録だ。ただ違うのはこれが社員旅行中に抜け出してということ。さらに違うことは、自分の会社だっていうこと。そう、会社の跡継ぎがふらりといなくなったのだ。

 

事の始まり

2014年の冬頃、社内アンケートを取り旅行先が沖縄に決まった。普通、アンケートをとったら得票数が多いところにいきそうなものだが、ワンマンブラック企業である弊社はアンケートをとるが結局は社長の行きたいところになる。というわけで、沖縄なのである。

 

今回は「自由行動がメイン」ということで、私は額面通りに頂戴した。ありがたいことだ、普通のツアー系なら僕は「立場」ということで常に同行しなければならない。社員たちにとっては気ままな旅行でも、僕にとっては苦痛でしかないのが行事というものだ。だが今回は自由。

 

社員全員に、安全等の為に配られた各個人の旅行計画。それに沖縄の地図をプリントし、休憩場所を設定、何時スタートで各地点の通過タイム等を記入して提出した。周りから止められると思ったけど、社長が「息子はスゴイな!」と笑っていたもんだから問題なく僕の沖縄ライドは承認された。

 

旅全体は2泊3日

1日目は那覇から最南端のひめゆりの塔等の観光、宿泊は中腹の恩納村

2日目は自由行動。宿泊地が那覇市街地と変わる。

3日目は午前自由行動で午後は帰路。

 

2日目の宿泊地が違うというのに目をつけ、恩納村那覇を自転車で移動しようというわけだ。遠回りに。

 

さあ、沖縄へ行こう。

持っていくものはいつものファストランの装備。

薬類、輪行袋、タイヤレバー、チューブ2本、CO2ボンベ2個、空気入れ、サイコン2つ、雨具、ライト2つ、ヘルメットカメラ1つ、テイルライト1つ、反射ベスト、塩タブレット、ドリンクボトル×2、クリートカバー、クレジットカード、現金。

 

飛行機輪行ディレイラーだけ外して、緩衝材をいれれば国内では丁重に扱ってもらえる。自分が使っている輪行袋は業界最軽量で薄さは酷いものだが、全く損傷もなかった。

 

社員旅行なのに45リットルのリュックを背負って、肩に自転車を担いでいる光景は明らかに可笑しかっただろうが、そんなことはどうでもいい。取引先の業者のみなさんも声をかけてくれるがそんなことはどうでもいい。沖縄で走ることだけを考えていた。

 

高崎からバスで羽田に付き、そこから飛行機。数時間のフライトで沖縄。沖縄に付くとメチャクチャ暑い。暑いのはいいとして湿度が想像より遥かに高い。事前に聞いていた話だと、沖縄は湿度が低いということだった。が、まるでこれは京都だ。嫌な予感がする。

 

1日目のバス観光は外国人労働者たちと周った。(自転車の運搬をいつも手伝ってくれた) 日米の激戦地である沖縄の資料館を見ているとき、彼らはインド系イギリス植民地のルーツである、今はアメリカについてどう思っているかを聞かれた。あまり聞かれない質問だし、基本的に彼らとは英語で会話をしている。言葉がうまく思いつかず、答えられなかった。彼らの国はつい最近まで内戦状態だっただけに、より言葉に詰まった。

 

ディナーは恩納村のホテルのビーチで宴会。そこそこに楽しく飲んで、皆への接待もそこそこに引き上げ、室内で自転車を組み上げた。前日も4時起きだったし、翌日も4時半起きだ。6時間も睡眠がとれない。苛つきながら勢いよく睡眠導入薬を口に入れ眠りについた。

 

朝4時半ごろに目が覚めた、まだ真っ暗だ。ホテルを出てコンビニで朝食を食べて、5時半にスタートをした。真っ暗なのに25度。それよりも気になるのは湿度で聞くと湿度が高いのは沖縄では珍しいことだとか。悪い日に当たったが、仕方がない。

 

体を慣らしながら北上する。風は追風、信号もない。左側にはずっと海が広がる。美ら海水族館の前を通り、43km地点のコンビニで休憩をする。こういう日取りでは無理は禁物だ。水分を十分にとりリスタートする。

 

途中、古宇利島という島につながる橋に寄り道した。長さは1kmはある橋が海の上にまっすぐ通っている。瀬戸内海を旅した時の橋とは違い、細い線が1本通ってる風で何ともいえな不思議な光景だった。今回、唯一入れた「観光」はもう終わってしまったのだ。

 

北上の旅は順調に続く。追風はまだ続いていて、気温は30度と高いけど心拍は落ち着いた状態で30~35km程度で走り続けることができた。2回目の休憩場所としたコンビニまでスタートから76kmを3時間弱で走り抜けた。まだ8時半。いいペースだ。

 

ただここから先、次のコンビニまでは110km何もない。調べた限り、地域の売店が2~3か所あるようだけど、どの程度営業しているのか分からない。自販機はあるのをストリートビューで確認していたので110km分の食料だけを買い込んでリスタートした。

 

さらに北上を続け、ついに沖縄最北端の辺戸岬めがけて200m登る。見る限り、海と草原と岩山しか見えない。本州にはない南国の草原だ。岬というと達成感を感じるものだが、見通しは悪くて特別な感情は無かった。

 

岬を登った分、下る。北上したら、南下する。

 

沖縄の北面は草原という雰囲気だったのに、南面に回ったら今度は鬱蒼とした密林という雰囲気になってきた。さらに悪いことに50~100mのアップダウンが続く。まだ9時なのに気温は30度で密林。温度以上に体に熱がこもっていく。さらに悪い事実を食わると、向風になった。ただの向風じゃない、高温の湿った海風だ。

 

幸運なことにやや曇っていて直射日光は避けられたけど、暑いものは暑い。坂を下りきったところで、半袖インナーと日焼け対策にしていたアームカバーを取った。ただ、面白いこともある。

 

最後に車が来たのはいつだったかなと思いながら丘を登っていると鳥がいる。ぼーと眺めながら通って気づいた、ありゃヤンバルクイナだ。ヤンバルクイナは沖縄の珍しい鳥。似た見た目の鳥がいるから気を付けてと言われたけど、ヤンバルクイナに違いない。最初は珍しがっていたんだけど、ちょいちょい現れる。珍しいんじゃないのかヤンバルクイナ・・・。次第に無関心になって行った。

 

かなり状況に嫌気がさしてきたところで安波という集落が見えた。

さっきのコンビニから50km、スタートから120km。時間は10時45分。買い込んだご飯を食べながらサイコンをチェック。一気にペースは落ちていた。次のコンビニまではあと60kmもある。ゴールまではまで180kmぐらいある。帰ろうにもここには電車もバスもない、とりあえず、いくしかない。

 

向風は、容赦ない。走り始めたものの、海岸特有のアップダウンが続く。もちろん、暑い。段々と心拍数自体が上がっていくけど、ペース自体は上がらない。気温もずっと変わらない。

 

ただ、風景だけは変わっていく。密林の低いところ、密林の高いところ。低いところでは川や海辺でマングローブのような風景が楽しめる。高いところでは一面に広がる森林に山々。たまに現れる生き物。ただ車やバスで走るのでは分からない風景や感触を楽しめる。つらいけど。

 

そんな森の中で突然看板が立っていたりすることがある。「この先座り込み中注意!」と書かれていて、最初よくわからなかったけど、注意と書いてあるから減速した。しばらくすると文字通りに何十人かが横断幕なんかと共に座り込んでいるのだ。

 

ただの森のように見えてこの辺りは米軍基地があり、分かりにくかったけど基地入り口があるようだ。平日のこんな暑い時間から、密林の中にいるのは結構シュールである。誰も通らないからアピールにもならないんじゃないか?と思ったけどプロは違うんだなぁ。それ以外にも、時より見えるフェンスに基地反対の横断幕があったりして、そういう意味で沖縄を感じさせてくれた。

 

途中、自販機でジュース休憩を1回入れて、予定のコンビニにたどり着いた。

集落から58km、スタートから180km地点。13時45分頃。米軍のキャンプ・シュワブの目の前で、例にもれず基地前の座り込み隊に応援を受けての到着だった。コンビニの冷房を丹念に浴びる。この日初めての座っての休憩だった。

 

暑さと山岳でやられきっていて、もうやりたくないと本気で思ったし、危険なことに熱中症の症状を感じていた。コンビニの前でしばらく休むことにした。15分ぐらい体を横たえた。ただまぁ、こんな野外で休んでもなんにこともないのよね・・

 

再スタート

 

山岳ゾーンは終わったものの、定期的に現る丘と強まった向風にペースは上がらない。考えることも単調になってゆく。残り距離とペースを見ては到着時間を予想し続ける。19時ゴールを狙っていたけど、どうにも無理そうだ。

 

風景は密林から市街地へと変わり始めてきた。

 

地形で失ってきたペースが今度は信号と渋滞で失うのに切り替わった、時間は夕方に近づき交通量も増えている。風は強烈になった。市街地で風が弱まるかと思ったのを見事に裏切ってくれる。また登り、下りは風速度が出ない。ふと先を見ると雲がある。経験で雨雲なような気がして、レーダーを見ると雨雲だった。

 

沖縄の道路は貝殻や珊瑚が混じっている。ドライの時は問題ないけど、雨が降ると極端に滑り易くなる。幸運なことに、たどり着いた時には雨雲は去っていて、路面も暑さで乾いていた。

 

うるま市を抜け、沖縄市に入った。沖縄市那覇市って別々なんだなーとか、ここが激戦地あたりかーとか、工事看板に英語がかいてあるーとか疲労困憊の中、ぼけっと思っていると道路標識が見えた。

 

[↑南城市 →那覇市25km]

こんな具合だ。これほど迷ったことはない。ルートは真っすぐだ。時間は16時頃だし、今右に曲がればのんびりと沖縄の夜を過ごせる。残りは60km以上あるんだぜ? この先行く場所は昨日のバスツアーでも行った場所だ。いかなきゃいけないってこともないじゃないか!

 

ココロが言ってくる。でも、後悔するよね。この誘惑を振り切った。

 

悪魔はしぶとい。この道を南下する限り、常に那覇は右にある。何度も何度も、道路標識は那覇への最短路を案内した。何度も何度も・・。

 

キャンプシュワブから60km、240km地点。17時10分。与那原町のコンビニで休憩した。悪魔を振り切り、150kmぐらい続いてきた向風にも耐えてきた。あまり食欲もないものの、どうにかご飯をぶち込んだ。フェイスブックを見ていると、よく行くお店の店長が入籍したようだった。

 

一人で疲れ切っているときにそんなことを知っても、そんなことと思うことしかできないのが人間の本音というもので、むしろ-感情のほうが出てくる。嫌なものだ。十分に汗で酷い有様になった体をストレッチして、リスタート。

 

残りは50km 20時を目指そう。

 

まだ、南下は続く。沖縄最南端の平和記念公園ひめゆりの塔に近づくにつれて徐々にっ町が無くなって平原が広がってゆく。ずっと海岸線なのでアップダウンも続く。ガーミンを見ると、この地形はちょうどひめゆりの塔で終わるようで30kmも走ればいい。風は相変わらずで、気温も夕方というのに落ちる気配がない。

 

南城市を抜け、糸満市に入った。昨日来たひめゆりの塔の横を通り抜ける。徐々に進行方向が北に映り、ついに真北に進路が向い追風となった。データを見る限り登りもほぼない。安堵感に包まれた。残りは15kmと言ったところだろう。同室の同僚からキーはフロントにあるという電話を受け、それにポジティブな返答をした。もう終わったようなものだ。

 

日も落ち、念のためにヘルメットカメラを装着した。

 

事前に登録したルート通りに北上する。おや・・自転車進入禁止。しまった。

困ったことに、ゴールまで10数キロというところでルートを見失うことになった。スマホを開いて調べてみると、那覇周辺は他にコレと言った主要道がなく、細かい道を乗り継ぎ乗り継ぎいくしかないようだ。しばらく考えて、ガーミンにホテルの位置を登録して、ガーミンのナビで行くこととした。

 

ガーミンのナビは現実的ではないことが多い。迂回してみたり、路地を入ってみたり。高温多湿の夜の那覇市街地を20キロ後半で進む。道も狭く、信号も多い。グネグネと曲がるのでどっちに向かっているのか段々と分からなくなっていった。もうガーミンに頼るしかない。路地の激坂を登り、下ると、突然、モノレールが現れた。少し進むと、大通りが見えた。

 

国際通りだ!

 

ゴールの宿は国際通りにある。突然のゴールに面食らった。大通りに出るとホテルの看板がすぐに目に入って、僕はガーミンのログを停止した。ゴールだ。時計は19時45分。ずいぶんと追い込まれた。

 

ホテルの地下に自転車を止めて、シャワーを浴び、荷物を片づけた。ホテルの外にいくと、ネットの友達がついていたので二人で飲み会を開き、22時半には引き上げ。23時には寝ていた。翌日の午前の自由時間は運転することもないのでホテルでオリオンビールを飲みまくって、取引先のみなさんと昼食をとった。夜の20時頃には会社で解散。

 

 

あれだけ昼飯を食ったのに、夕飯を食おうみんな!と社長がいい始めた。会社員とはかわいそうなもので、それに付き合っていこうという人たちが哀れだった。後継者たる僕はそれを断った。眠かったのだ。それに何より大事なことだが、翌日の夜、僕はヨーロッパ旅行に旅立つ。

 

疲れた体をどうにか癒さないと次のハードな旅に体がついていかない。先に決まっていた話に社員旅行を重ねてきたわけだから、文句を言われても困る。そんな分かり切ったことをも理解せず、不愉快そうに社長は夕食を食べにいった。

 

 数か月後、予定の行き違いから社長と揉めることがあり専務らと話す機会があった。その際に、この一件が良くなかったことを文句を言われた。なら言い始めたときにダメだと言えばいい。さらに年末の社内ゴルフコンペを断ったのも文句を言われた、コミケ当日の休日に予定を後から入れられてもね。

 

みんな好きなことをしていこうぜ!

引っ越しの準備をしている。

殆ど荷物を借りたワゴンに詰め込んであるから、あとはパソコンとコートを積み込めばいいだけと言ったところ。

 

ところで私は剣術を習っている。習っているといってももう10年以上だし、段も年齢的に取り切れる限界まで来ている。剣術というだけあって、日本刀を使うわけだが、私が使っているのは真剣。当然、家においてある。

 

父も同じ流派の剣術をしていたので、家には四振りほど刀が転がっていることになる。模擬刀や木刀を入れると10を超す。引っ越しというわけなので、自分の木刀と模擬刀、そして真剣を車に積み込もうと準備をしていると私の真剣が見つからない。

 

どこを探しても見つからず、母に聞くと父に聞いてみたらと言われたのでさきほど聞いてみた。

 

「私の刀、どこですか」

 

その答えは

 

「真剣はヤバいので預かりました」

 

いつから無くなっているのか分からないけど、先月見たときにはあった記憶がある。記憶は曖昧だからあると思っていただけで随分前から実はなかったのかもしれない。

 

とにもかくにも意味が、分からない。

 

会社を辞める騒動時に、命の危機を感じた父が隠したのかもしれない。

騒動にある程度決着がついた後だというならば、私の人格をそれほどまでに疑っているのだろう。

 

どちらにしろ、落胆した。昨日渡された、私の名前が書かれた掛け軸は

縁切れの意味なのかもしれない。

 

それはそれでいいとして、私の愛刀は、どこにあるのだろうか。

強い喪失感が、漂っている。

退社

退社の挨拶を本日の早朝致しました。

 

約半年前、突然と姿を消し、みんなの前に姿を現した私。迷惑を掛けたとは思っているけど、思いたくはない。ここまで追い込んだのは会社のせいだから。前日、あまりの恐怖に浅い眠りで目を覚ました。起きると同時に日本酒を2合分飲み、会社の近くのコンビニで1合分を買って飲んだ。素面では耐えられないと思ったのだ。

 

僕は何もなかったかのように会社の会議室の椅子に座り、出社してくるみんなも「よぅ」「痩せたな」「ジュニアーはたらけー」「年賀状みたかーのみいくぞー」「げんきそうでよかったっすー」「リフレッシュしたかー」「風呂いきましょうよー」と涙が出そうなほどに優しいというか、これはうまく表現できない。

今日の工事予定を部長が話して、僕が挨拶をした。前日まで何度も練習したものを、早口気味だとは思ったが言い切った。2年半、を1年半と言い間違えていたらしいがささいなものだ。僕が椅子に戻り、社長であり父が「ただただ、申し訳ございませんでした」

 

と言っていたのがなんだか面白かった。私の不始末について言っているのか、それとも自分の至らなさに言っているのかは興味があった。僕が会社を辞めるに至ったのは90%が社長であり父が原因なのだから。

 

解散して、車に積んであった道具を片づけた。仲が良かった人たちからは決まって「何するんですか?」と聞かれたけど、そんなものは決まっていないから「二人で商売はじるか!」とか「おすすめないですかねえーw」ととぼけて見せた。

 

この会社は基本的にいい人しかいない。というか気の毒なほどいい人しかいない。何故これほどいい人たちしかいないのか不思議だ。恐らく、経営陣が基本的には気がいい人間たちなのだろうし、私自信もその傾向がある。ただ、僕の生き方や価値を否定し労働という生き方だけを強要してくる社長にだけは気が合うことがなかった。

 

そんなものだから基本的な人間関係自体は問題がない。特に現場サイドに近づけば近づくほど、僕は僕として受け入れられていた。僕の立場というものにある程度気を遣っていないわけではないだろうけど、その立場の効果を失っても尚、変化がなかったことに人を疑いすぎていたのではないかとも思った。

 

そんなことを思って、会社の物置で測量機械をチェックしていると24歳の現場監督が声をかけてきた。僕が一番、色々な意味で愛している男の子だ。男の娘でもある。初耳だったが、僕が失踪した直後、彼は退職届を出した。その他にも40歳の職長も退職届を出しているが、20歳の彼は説得された残っていた。

 

彼は現場監督という職務においてはほぼ同期で、二人して試行錯誤して現場に取り組んできた。この会社でほぼ唯一、本音で話してきた子だ。趣味が同じだったし、価値観も似ていた。建設業に染まっているわけでもなく、二人して将来のことや会社のことを話した。僕が1年前に見合いをしたり、彼女ができたときも唯一彼にだけはそれを話した。

 

社長に対しての対応で面と向かって怒られることもあったし、彼を励ますこともあった。ラーメンを食べに行ったこともある。辛いクソみたいな現場を乗り越えて来たし、彼が入院した時は彼の書類を僕が作ったこともある。彼には彼女がいたし休みたい性分だったから休め休めと休ませた。とにかく将来の右腕として彼に対していた。

 

そんな彼が「自分が何をしたいのか分からないんですよ」と言ってきたときに、彼のこの会社での目標は私と仕事をしていくことだったのではと思った。ここ数カ月、彼ともう一人の20歳の子のことはずっと気にしていたけど、何ともいえないうしろめたさを感じた。その彼と、今後のキャリアについてしばらく話した。困ったことに、別段自分も何がしたいのかというのがなかったから、言葉に困った。

 

そうこうしていると工務の部長が声をかけてきた。「どうしちゃったん、いやになっちゃったんかい」「まぁ社長です」と僕は答えた。彼は子供のころから会社にいたけど、率直に言って怖くて苦手だった。この年になって会ってみると、当時とはだいぶ雰囲気が変わり軽い感じのおじさんに変わっていた。自由奔放な人で、仕事には厳しく、ただ何かと問題がある人ではあり会社では嫌われているけど基本的な部分は僕によく似ている。

 

僕の「好きにしたらええがな」という自由主義的な価値観はこの人物から来ている。高校生のころに少しアルバイトをしたことがあって、その時に部長が話していたことがある。

 

「昔、仕事でスゴイよくしてくれる人がいて、自分だけではなくてみんなにそうするんだよね。ただ、薬物中毒なんだよその人。でも、いい人なんだ。ある日、そのいい人の財布を盗んだ奴がいて俺たちが捕まえて、その人の前に引きずりだしたんさ。そしたら、その人はいうんだ。離してやれ、お前も金が無くて困ってたんだろう。その金はくれてやるから、みんなもういいよ。ってさ。スゴイいい人だろ?でも、薬物中毒なんだよ。だからさ、なんていうかさ、バカにしてもいいのかもしれないけど”存在しちゃいけない””いなかったことにしよう”って考えるは違うと思うんだ」

 

僕はホモセクシャルや人種や国籍にも基本的には寛容というスタンスで、時に「ファッションホモ」と軽蔑されることすらある。それに明確に苛立ちを覚えるのは確固たる信念があるからだ。オタクがゆえに軽蔑されてきたという背景もあるけれど。

 

そんな部長からいつものように長い一人話を聞かされて、最後に彼女の話をされた。たまには出かけるのかーとか。そして家を出るという話で「女と住む気だな!このー!」と茶化された。面白いモンダ。

 

別れて、本社の事務所でパソコンの処理をし書類を受け渡した。社長がいたけど特に挨拶もせずに彼は出て行ってしまった。事務の女性が僕の名前が書かれた掛け軸を渡してきた。社長が僕に渡したということだろうけど、意図が分からなかった。もう二度とかかわらないということなのか、逆なのか。会社の貸借対照表もついでに渡された。悩ましかった。

 

手続きが終わり、会社を出た。

 

会社・・父と僕の関係は終わった。生まれたときから会社を継ぐことを期待され、子供が親の期待に応えるように、僕は育った。結局ダメになったけど、長い年月、待ち続けた日でもある。その日がついに来たのだ。夢を叶えた、ともある意味言える。

 

さぞ晴れやかな気分!と思った

 

実際は違った

 

 

今後社長が会社をどうするかはさっぱり分からない。僕は資産を頂戴する腹はあっても経営する気はさらさらない。でも、今日話してきた人々は8年後・・社長が死んだとき・・とにかくあるタイミングで僕が戻ってくる前提で話してきていた。僕に姉は2人いるけど、あの2人ができるとは思えない。能力的に可能性があるのは僕だけだろう。

 

僕が否定しようとしている可能性を、巨大な力学が実現させ、僕の自由を奪おうとする、そんな予感がした。

 

どうなるかはもちろん分からない。一度出て行った人間を向かい入れるだろうかと言われると疑問だけど、僕と社長の不仲が原因であるとみんな気づいているところがあるから、いなくなれば私がという「現実」を今度は突きつけようとしている。

 

僕はこれで終わったと思っていた

もしかしたらこれが新たなる始まりになっただけなのかもしれない

 

感情では否定しても、僕の脳は案外現実的だ。転職に際して、僕が希望したキャリアは「経理」「人事」の方向だ。この2つにやたらと関心の寄せていた。

 

もしかしたら、この会社において「私だけが特に担当する領域」だからかもしれない。工務、営業は替えがある。経理も替えは聞くが経営者は財務について知識がなければならない。人事・・人は経営の要だ。もし、何か自分が求められたときに、必要とされている知識と経験を抑えておくべき。そう無意識に考えていたのかもしれない。

 

嫌なもんだ。

 

でも、保険は掛けておくべきだと、現実を見れば思う。今後数年で、実務経験をその分野で詰める可能性は微妙だ。せめて資格として有しておけるように手を打っておくべき。帰り道そう思った。

 

ようやく自由と思った

もしかしたら違うのかも、しれない。

オーバーホール

ロードバイクをオーバーホールに出しました。

来週にはピカピカになって帰ってくると思います。

 

年間で7000~8000km程度しか走らないものの、ちょっとした車並みの距離は走っていますから年に1回4万円を払っています。時速30~40kmは簡単に速度がでるし、下りでは時速70kmも出るロードバイク。

 

ただ、車と違って自分を守ってくれるのは自分の体と、細いパーツ達だけです。

命を預けているものだし、さすがにガタがでてきますからね。

 

今のロードは2011年の7月ごろに購入したものなので、もう少しで満5年。少なくとも3万キロ、一緒に旅をしてきたことになります。地球の円周が4万キロらしいので、人生累計では地球をほぼ1周しているようです。思い返すと確かにいろいろ行っていますね。

 

東京→大阪 

東京→新潟

東京→直江津

東京→仙台

仙台→青森

 

高崎→金沢

高崎→長野→山梨→長野→高崎

高崎→大洗→高崎

高崎→山形

富山→天橋立→福山

倉敷→愛媛→大分

 

佐渡島1周

沖縄5分の4周

九州1周

房総半島1周

関東平野1周

残っているのは、山陰と北海道だけ。もっとたくさん色々なところに行きたいもんです。あと1年、このロードで旅をして、来年は新車を購入しようと思います。どこまで行けるだろうか?どこまででも行けるもんです、案外。

ねむれないので

眠れないので英語のジョークでも読んでみようと思ったけど、そんな気分でもないので文字を打って眠気を作ることにしようかなと。

 

僕には付き合って半年ほどたつ2歳年下の彼女がいます。小説っぽく書き出すと

I was riding the mount nearby my house .then I met her.

She said...to me....

みたいな感じになる。

 

僕が2010歳の夏、22歳の頃、一言で言うと彼女に振られた。自分から別れたいと何度も思ったけど”看病”に費やした努力をゼロにするのが怖くて長々と関係が続いた。振られた時は、自分にとって苦悩が多い時期だった。振られただけならよかったけど、僕の周囲の人間関係を大いに掻き回して苦悩を増やして消えていった。

別れたことに後悔は一切ない、むしろ望んでいたことだった。ただ、最後の一件が為に、長い年月酷く引きずった。そして人に自ら何かを期待するのをやめた、好きな人には特に。

 

それから5年弱、何もなかったといえばウソになるけど、概ね何もなく過ごし、ひたすらに旅とゲームとオタクに時間を費やした。2014年の冬コミの後、大学のサークルのみんなで飲み会を開いた。20人以上が集い思い出話にも花が咲いた。ふと、後輩の女の子が「せんぱーい、まだひきずってるんですかー?」と言ってきた。

 

個人的には完全に冗談話の身内ネタにまでなっていたけど冗談めいて「傷跡ぐらいのるわ!」と笑った。遠くから「もう4年はたってるんですよwwwもうwww」と馬鹿笑いが聞こえてきてハッとなった。もうそんなにたったのか。自然と「そろそろ動き出すかねー」と口に出た。

 

群馬での悪い兄ちゃんみたいな人が彼女を作ったという話もあった。2014年はそれなりの女性に縁はあり、自転車でよく走りに行ったりしていたものの、私が「女はお断りだ」というところがあったので特に何も無かった。何か好意的な言葉があっても、膝にナイフを突き立てて正気を取り戻す、そのような感じがあった。

 

単純に女性というものに嫌悪感と言わないでも警戒感や不信感を強く抱いていた。2010年の事件だけではなく、女性職場でそれなりに不愉快な目にあったからでもある。そんな私に特に距離を置くでもなくフォローをしてくれていた男女含めた友人らに、今ふと感謝の感情を抱いた。それはそれとして。

 

積極的ではないけど、縁があったなら付き合ってみてもいいのではないか。そう思うようになった。でも別に急ぐ必要もどこにもなかった。いなかったらいなかったでやることはたくさんあるのだから。

 

それから8カ月が経とうかとしていた。7月から沖縄を自転車で1周し、欧州を旅し、台湾を旅し、八ヶ岳を登りとすでに「女のことなど忘れ」山という新たな領域にまで足を踏み込んでいた。今年もこのまま何も起こらないだろうと当然思っていた。ネットでも何人か出会い自体はあったけど、ただの趣味仲間に留まっていた。

 

そんなときに交通事故で入院していた”相棒”が退院してきた。彼の自転車は事故で大破したのでリハビリの為に僕のスペアバイクを化すことになった。聞くところによると弟子とライドにいくそうだ。

 

興味がわいた。

 

その相棒、といってももう40歳のおじさんだ。出会いは3年以上前になる。僕が東京にいた頃で彼は群馬にいた。自転車の方向性がなんとなく似ていて、価値観が似ているところがある。僕が帰省すると山を一緒に何度か走っていた。彼はストイックで、性格も協調性があるとはいいがたいところがある。1匹狼に近い部類だろう。

 

ただ、群馬に来てからは地盤が東京にある私を気遣ってか色々な人や団体を紹介して貰っている。いろんな意味でキャリアが上なのだが、時たま不愉快な言動もちょこちょこ出てくる。腹に据えかねて私が怒ることもあるけど、付き合っていたほうが結局面白いことが起きるので一緒にいる。けど、やっぱり合わない人にはとことん合わない人だろう。・・合わない人のほうが多いんじゃないだろうか。

 

そんな人に弟子?しかも女?

 

その時は彼への関心からフェイスブックをたどり彼女をたどってみた。写真、住んでいる場所、などなんとなく分かったけどよくわからない。単純に彼女に会ってみたいと思ったし、その機会はすぐに来た。久々に彼女を新たに加えた5人で高崎の観音山を夜連しようという話がでたのだ。

 

27日、仕事を終えて集合の高崎駅のコンビニ前で夕食のおにぎりを食べていると、1人の女性が現れた。思ったより小柄で、ヘルメットやアイウェアをしているから分かりにくいけど、かわいいとも美人とも言える子だなと思った。髪を撫でたいな、頭を撫でたいな。と思った。

 

「えっと、どなたでしたっけ?」と聞かれた。あぁそうだ、彼女にとって初対面は他にも1人いるんだった。名前を告げた。自分は人見知りのほうだし、手探りだったからそれ以降何を話したかよく覚えてない。徐々に人が集まりだして、会話が転がり始める。

 

僕の関心は彼女だけになった。走りながら彼女がどんな話をしているのかずっと気になった。白衣観音で休憩していたとき、彼女が僕に目を合わせてくれないし言葉を交わしてくれないので、不安になった。とにかく印象を残して貰おうと思って、アクロバティックに写真を撮ったし、単純に彼女の写真が欲しかった。

 

山から高崎駅に戻ってくると、そこから1時間程度の立ち話になって、それは彼女とか関係なくとても楽しい時間だったことをよく覚えている。もう23時だということで解散し、僕、彼、彼女は同じ方向に走り出した。彼女はすぐに逆方向に行ってしまったけど、次に会うことはできるのだろうかと焦りと不安を感じた。

 

うちまでは僕と彼は20分ほど一緒の道だった。僕は彼から彼女の情報をもっと知りたかったし、知れば知るほど「ようやく見つけた」そう思った。

 

次に会うことが出来る機会も数日後にすぐに訪れた。30日、日中に彼とチームのライドに行った後に、私は彼女と2人きりでご飯を食べることになった。その段階で、実は付き合いたいか、まだ悩んでいた。相手が、というより自分の心への疑問だった。

 

腹は決まっていたけど、優柔不断だった。書いてこなかった今までのことが何かと心を邪魔した。ただ、その書いてこなかった中で、自分が「好き」と思っている状態がどのようなものであるかを理解してきた。今までの苦しみも無駄ではなかった。

 

私服の彼女と駐車場で出会ってその姿を見たとき、自分の心に彼女のことを明確に好きだと認めることにした。

 

翌日の31日、高崎で彼と彼女が飲むというやりとりを見て、割り入りたいと思った。2人は恋愛関係でないとしても、それ以上親密になってもらっては困ると焦った。この人間にも人並みに嫉妬心や独占欲とうものがあるらしい。昨日、彼女が山を一緒に走った他の男性のことを口にしていたのが気になって仕方がなかった。何より1刻も早く会いたいと思った。その日の彼女はとても酔っていて、陽気でとてもかわいかった。

 

9月1日という日、その何週間前から大変難しい仕事に直面していた。初めてのことばかりだったし、何より朝5時半に出社して帰社は21時過ぎというスケジュールが続いていた。納期はゆとり無し。細かい調整や判断、肉体仕事や機械作業、測量と目白押しだった。

 

前日飲み終わったあと、そのまま車中泊をして酔いを覚ましてからそのまま、その日も朝5時半すぎに出社した。

 

もう彼女のことで頭がいっぱいになっていた。仕事が落ち着いたら・・と思っても、その間に何かがあっては・・と思ったりするし、そもそも相手は僕のことなどなんとも思っていまいと冷静になろうとしたり、lineなどのやりとりから情報を得ようと必死だった。もう心を痛めたくないというのがあったのは事実だったし、脈があったとしても早すぎるのではとも思っていた。なんたって出会ってから1週間も経ってないのだから。

 

長い長い葛藤の末、もう真っ暗になった田舎道を走るバンの「車に酔った」からと助手席の窓を開けて青ざめている職長の後ろの席で寒さに震えながら「直接会っていうことだけど・・」と約10年ぶりに切りだした。

 

幸運なことに、答えは「スクリーンショットで保存したからね!」だった。

 

それから見限られてもおかしくないような日々を過ごした。いつ振られるのか毎日が心配だった。「話があるんだけど」「ちょっといい?」というLineの文面を見るたびに神に祈った。幸せなことに、いつも些細なことが続いた。

 

一緒に住もう。という話をしたときに、すんなりと話が進んだときは嬉しかったし、なにより安心した。いつの間にか、彼女のことを疑う・・正確にはいつ僕を要らないと言われるのかをあまり心配をしなくなったことに気づいた。ささやかな指輪を交換した時も、僕は迷わずに左手の指につけた。

 

僕らの問題が上手く解決していくように、自分の父の母に対する振る舞いのようにならないように気を付けながら、愉快な日々が待っていることを祈って。

 

・・さすがにちょっと、眠くなってきたから、寝るよ。

ひっこし

引っ越しをするので契約をしに行きました。契約主は彼女で僕は同居人という形。その書類に「婚約者」と書かれているのが目に止まり、少し笑ってしまいました。そんなこと1回も言っていないのに客観的に見てそう見られる立ち位置なんだなとも思いました。

 

一応、彼女の親には「結婚を前提に」ということになっているわけです。ならなんで私♂が契約主ではないのか?と問う人もいるのではないかと思います。答えは「なんとなく物の話の流れでそうなった」というほかありません。

 

結婚を前提にするならば「なぜ男でなくてはならないのか?」

 

社会全体の傾向として「男」が「家」の「長」という発想が前提になっているのでしょう。残念ながら私は「契約」にすぎず「2人の人間」が「対等」にという前提に立っています。

 

「家」に関しても”新たな戸籍を作る”のだから「嫁入り」「婿入り」というのを前提にした価値観は理解はしていても受け入れようとはしていませんし、実際末っ子長男というただ1人の継承者という見られ方をされがちな立場でありながら、苗字は彼女のものを名乗りたいと早々に伝えていました。が、今のところ相手も「今の苗字を変えたい」ということなので、私は苗字を変えない見込みです。

 

性別によって能力差や向き不向きが生物学的に発生するのは事実だと思います。アスリートのリザルトを見れば明らかです。それは特性や傾向であって、やはり規定されるものではなないと思います。地位や出身や性別に影響を受けながらも最終的には1人格がどう思うか。それが問題ですよね。

 

というわけで、僕はホモセクシャルだろうがなんだろうが「あぁそうなの」程度にしか思いませんし、逆に「~というものはこうでなければならない」と言っている人の根拠が分からない。

 

ただ、まぁ、全ての個人の人格を尊重ししなければならないという「しなければならない」にはまっているあたり、同じムジナに過ぎないのかもしれないけど。

じてんしゃ

自転車っていうのは浪漫としかいいようがない。

中学校の頃、鬱屈した日々を送っていた自分というのは「こうでなければならない」「大人というのはシッカリしていなければならない」と思っていた。親が会社を経営しているとどうにも生きにくい。時代は不況もどん底で、建設業は悪とまで言われたし、いつ自分の生活がまっさらになるか気が気ではなかった。諸っ直な話、やりたくないと思っていたんだと思う。

 

中学校の頃、成人式に読むように書いた手紙にはそれが濃縮されていた。一読して捨てたけど。とにもかくにも、この人間はそういう小さいころからのトラウマからか大きなものを背負いたいと思わないようだ。いつでもすぐに移動できるような生き方が精神的にも合っているようで、家を買おうとかも思わない。勝手に同じところに住むのはいいけど「いなくてはならない」となるのが嫌いなのだろう。

 

中学のころもそうだけど、高校の頃もアニメばかり見ていた。ただそれだけじゃただのオタクになっちまう。ただでさえ体脂肪MAX37%のメタボな体をしているんだ。何か他に趣味を「身に着けよう」と思ってモーターレースを見てそして剣術を始めた。声優ラジオを聴いているうちにアニスパという番組を知り、POAROというユニットを知った。彼らは16の自分にとっては大人(当時31と28歳)であったけど、自分の思う大人とは違っていた。

 

ずいぶん自由なのだ。下ネタはいうし、ふざけたことしかしないし。バラエティーではなく普通のこととしてしていた。今になって思えば、大人は大人のフリをしていただけで中身は子供と大して変わらない。だけどその時の自分にとっては目から鱗としかいいようがなかったし、「~でなければならない」に支配されていた自分にとっては精神的に救済された。自由でいいんだ!って。高校から大学の間、彼らが登場するラジオを死ぬほど聞いた。彼らが影響されたものも全てではないけど知ろうとした。

 

そんなこんなしていたら大学に入学して東京にきていた。大学のサークル1年の夏合宿は九十九里浜で台風が接近している時だった。宿にバスで着くと、クロスバイクが1台ある。1つ上の先輩が100kmほど走って合宿所まで来たらしい。

 

数か月後の学祭2日目。先輩4人にファミレスに誘われた。クロスバイクで走ってきた人もその中にいた。最終日の明日、闇鍋をやって映像企画にしてコミケで出そう。そのとき、うっかり「うちなら空いてますよ」と言ってしまったのが全ての始まりだった。この企画自体はサークル内のゴタゴタの末に生まれたものなんだけど、気づいたらやっていて、コミケで頒布していた。

 

大学の2年になった頃、何か新しいことをしようと思っていた。春から剣術のサークルも1つ立ち上げて5人ぐらいで活動を始めていたりしたけど、全く新しいことを何かと思った時に自転車が頭をよぎった。

 

要因はいくつもある。ここまで長いこと書いたのは布石だからだ。

・中学生が憧れることと言えば「自転車で遠くに行ってみた!」

・部活もしてなかったし青春っぽいことをしてみたい

・高校で痩せたとはいえ中学時代のように肥満になりたくない

・モーターレースのようにタイヤがついていることをしたい

・バカバカしいと思われることをしたい

・自由に、いろいろなところに行きたかった

金がない大学生にとって調和するところが自転車で、クロスバイクをかった。加えると、自分が「こうなりたい」と思っている人物がその先輩で、とりあえず同じことをすれば同じようになれるのではないか。と単純に思ったというのもある。

 

というわけで、僕は自転車乗りになった。

 

目標は最初から決まっていた、佐渡ロングライド210完走だ。気づいたかもしれないけど、クロスバイクの先輩が誘われたのだ。ただ、130kmコースから目指すことにした。佐渡は起伏が激しいから山も登れないとイケない。

 

僕の周りには自転車界隈の人は当時はその1人しかいなかったから「自転車で1つの山を登る」というのは小さいコミュニティの中では恐ろしく馬鹿々々しく面白く感じた。無知ゆえに手近な山に行ったら道も分からず、箱根旧道や赤城旧道という「著しく初心者向けではないコース」を登っていた。今思うと、相当頭がおかしい。

 

その後、佐渡1周をし、就職をし、ボーナスの殆どを使ってカーボン製のロードバイクを買ったところで目標を失っていた。「色々なところに行きたい」「遠くに行きたい」という感情だけがあった。友達もロードに乗り始め、そんな彼がロングライダースという本を紹介してくれた。読んでみると東京大阪を突っ走る企画や1000kmを走る企画がたくさんのっている。ばかばかしい!すげぇ!!と思うとともに「行動の指針」を得た。

 

それから何年も経ち、いろいろな場所に行き、気づいたら長距離専門+山をそこそこ登れる”結構速い”部類まで育った。存在は各所でしられてはいると思う。通算だけど青森から下関、九州1周、沖縄1周、日本海側は山形から鳥取の手前まで。

 

楽しいというよりも、最初は「誰からも認めてもらいたい」という感情が猛烈に強かった。自転車の界隈で有名な人たちに知られたいと思って、とにかくいろいろなコースを走りに走った。嬉しいことに、次第に声をかけて貰えるようになるようになった。自転車における相棒やグループも生まれた。

 

 

自転車の楽しみ方は人それぞれ違うのにも気づいた。自分にとっては行ったことがないところに行けた、見れた。ということのほうが大事でもあった。東京にいた当時はシフト制の肉体仕事をしていた、これが疲れる。1日の休みを使って、疲れ切った状態で何百キロも走る。さらに疲れた状態で仕事をする。仕事をしながら体を休めるというスタンスだった。

 

それがつらすぎるし、もっと自転車のイベントにたくさん出たいと思った。腰痛もあって、とりあえず土日の仕事に変えた。結果的にイベントに出れるようになって、実績を積み、もっとやりたいと思うようになったが、今度は休み自体がなくなった。

 

自分がやりたい、やりたい、やりたいと思っていることが仕事で出来ず、同世代がどんどん自分もやりたいと思っていることに挑戦していくのは見ていて「言葉にできないほどの感情」をもたらす。結果として僕は精神的限界を感じて、また仕事を辞めた。

 

自転車が、というよりも世界というのは面白い。死ぬまでに何がしたいか?と言われたら世界のすべてを見て知りたいというのが答えになる。どうせなら他の人がやらない面白い方法で。ユーラシアを自転車で横断とか面白さしか感じない。浪漫だ。

その時、どんな風景が待っているのか想像しただけで胸が高鳴る。

 

そういう意味だけにおいて人生は意識高く生きたい。仕事はその手段でしかない。

「~しなければならない」という世界ではこの発想は悪でしかない。

 

そうさ、ダメ人間といえばダメ人間さ。

でもまぁ、人間ってのはやりたいことをやるもんなのさ!少なくとも、自分がやりたくないと思ったことは続かないってのは10年で分かった気がする。中学からの鬱屈、自分探し、そして28歳を目前に迎えてようやく自分ってもんが分かったそんな気が、特にここ数カ月思う。